月刊中国ニュース 2017年9月2日(土) 14時50分
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この「車中会談」はその後の事態の展開に決定的な意義があったと私は考えている。もちろん、姫外交部長は北京市内に戻り次第、周総理のもとに駆けつけた。写真は筆者提供。
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その晩、周総理は他のテーブルには赴かなかったが、他のテーブルの客人たちは総理と乾杯したがって、次々にメインテーブルにやって来た。まるまる3時間、メインテーブルの通訳を担当していた私は極度に緊張したままで、箸を動かすこともできず、飲み物をほんの何杯か飲んだだけだった。
結局、すべては平常どおりで、何事も起こらなかった。総理は会場を去る際に私の肩を叩いて、こう言った。「君、ご苦労だったね」後になって、私は韓叙にこっそり聞いてみた。いったいあれはどういうことだったのか、と。彼が話してくれたところによると、いわゆる「重大な情報」というのは、東京に住んでいる一人の愛国心の強い老華僑が緊急だといって伝えてきた情報だったという。
もう一つの小さな問題は、田中首相の訪中の前日の夜に起きた。周総理は会議を招集し、準備作業が間違いなくおこなわれているかどうか、一つひとつ確認した。彼は書類ファイルから内部資料を取り出し、怒りもあらわに言った。この「田中角栄の人となり」という資料は1万字近い長さがあり、今日の午前、東京から送り返されてきたものだ。書いたのは日本駐在の中国の記者だ。田中首相に関するものだし、「超緊急」の資料だというから、私は時間を割いて丁寧に読んだ。読んでみて驚いたが、田中首相がいかに女性を弄んだかとか、愛人が何人いるとか、そんな話ばかりだ。低級にして卑俗なもので、まったく読むに堪えない。
総理はさらに言った。日本のような社会では、このような醜聞のニュースはたいてい根も葉もなく、信じられないものばかりだ。また、たとえこれが事実だったとしても、われわれは心をこめて田中首相の訪中を歓迎しなければならない!なにがなんでも、彼とともに両国の関係正常化を実現しなければならないのだ!
周総理は最後に言った。この資料を私が先に読んだからまだよかった。直接毛主席のもとに届けていたら、どうなっていただろう。毛主席も私も70を過ぎた老人で、健康状態も若い頃とは違う。諸君は全員、政治的な覚悟と判断能力をさらに高めて、この記者のようにわれわれの貴重な時間とエネルギーを浪費したり、注意力の妨げとなったりしないようにしてもらいたい。
【紛糾を呼んだ『ご迷惑をおかけした』の一言】
初秋の北京。天高く、空気もさわやかに、青空がどこまでも晴れわたっていた。1972年9月25日午前11時30分、田中角栄首相の乗る専用機が空港に到着した。周恩来、葉剣英ら中国の指導者たちがゆっくりとタラップに歩み寄った。数分後、田中首相がタラップを降りてきた。表情は厳粛で、やや緊張した面持ちだった。
「私は54歳で日本の首相になりました田中角栄です。どうぞよろしくお願いいたします」。「周恩来です。ようこそいらっしゃいました」。そばにいた私はひそかに当惑していた。田中首相はなぜ、自分の年齢を強調するのだろうか。両国には外交関係がなかったから、空港で礼砲を打ち鳴らすこともなく、群衆が熱烈に歓迎する場面もなかった。
周総理みずから、田中首相を釣魚台国賓館18号楼に案内し(その年の2月にニクソン大統領が訪中したときも同じ所に宿泊した)、客人とともに1階の応接室に入った。私の知るところでは、これは接待の基準や外交儀礼としては非常にレベルの高いものだ。田中首相もそれをわかっていたのかもしれない。満面の笑顔で、すこぶる機嫌がよかった。周総理があの不自由な右手を使って薄いコートを脱ごうとしたとき、田中首相は大股に歩み寄って、手を貸そうとした。
周総理は笑顔で、大丈夫、自分でできますよ、と言った。田中首相も笑顔で、部屋の主人としての役目を果たさなければいけないと思っている様子だった。このときになってやっと、そばで通訳の仕事に専念していた私は自分の責任を思い出し、急いで周総理がコートを脱ぐのを手伝った。
2人は席についた。田中首相はまた、自分は54歳で日本の首相になったと言いだした。周総理は笑って言った。私の話をしてもよろしいですか、私は51歳で中国の総理になって、もう23年たちましたよ。それ以後、田中首相は二度と自分の年齢の話はしなかった。
田中首相は草の根から成り上がった立志伝中の人物だった。新潟県の普通の農家の息子として生まれ、土木専門学校を卒業した。親戚や友人のなかに政界や経済界で後ろ盾になる人もなく、孤軍奮闘して出世したのだ。
始まりは順調だった。だが、その夜、周総理が主催した歓迎晩餐会の席上で、田中首相が返礼の挨拶のなかで言った一言が、会場に強烈な反応を引き起こした。「私は、日本が過去に中国人民に多くのご面倒をおかけしたことについて、ここに再び反省の念を表すものであります」。という一言だった。中国側の出席者たちは首を振って不満を表明し、これはいったいどうしたことだろうと考えていた。歓迎ムードだった晩餐会はいっきに冷たい雰囲気になった。
周総理はずっと黙って考えていたが、晩餐会が終わるときに、田中首相に対して一言こう言った。明日の午前の会談のときに、中国の立場と態度を詳しく説明しますから、日本側もよく考えてくれることを望みます。田中首相はうなずいて同意した。
次の日の午前の正式な会談は3時間にわたって開催され、周総理はいっきに1時間近くも続けて話した。
私は周総理が以下のように三段階の論法で話したことを覚えている。第一に、中国語では、「ご面倒をおかけした」というのは人々が日常のつきあいのなかで、ごく軽微な過ちについて言う言葉であって、日本の軍国主義が引き起こした侵略戦争が中国人民にもたらした深刻な災難について、「ご面倒をおかけした」などという言葉で言い逃れるのは許されないことである。第二に、率直にいって、中国人民、特に中年、老年の人々はこのたびのあなた方の訪中と両国の会談に真剣に注目しているが、「ご面倒をおかけした」という言い方は、彼らがけっして受け入れることができないものであり、強烈な反感を引き起こすだろう。第三に、中国側はすでに、賠償の要求を自主的に放棄するなど、おおくの努力をおこなっている。日本側も中国側にしっかり向き合い、日本が過去に犯した深刻な罪について、明確ではっきりした態度を示してほしい。周総理が長々と話したとき、日本側はずっとうつむいて聞いていた。弁解もしなかったが、中国側の考えを受け入れるとも言わなかった。最後に田中首相は、中国側がもっとふさわしいと考える言い方があるなら、中国側の習慣にしたがって表現を変えてもいい、とそれだけを言った。
次の日、中国側が提起した「政治3原則」について両国の代表団が討論するにあたって、日本側の主要な随員である外務省条約局局長高島益郎が初めに発言した。
高島局長は政治原則のはじめの二つについては異議を唱えなかったが、第3の原則、すなわち、「『日華平和条約』は非合法であり、無効である」とする中国側の立場について長々と話した。それはだいたい、竹入義勝が前に話したのと同じ内容だった。高島局長はまた、田中角栄内閣が無理やりこの原則を採用するなら、すぐに辞任を余儀なくされるだろうとも言った。それから、賠償問題にも言及し、日本の法律によれば、すでに20年前に両国はこの問題を協議しており、中国側はそのときにすでに賠償請求を放棄していると言った。
周総理はじっと我慢して聞いていたが、高島局長の発言が終わるとすぐに田中首相に質問した。局長の言ったことは彼個人の考えなのか、それとも、日本政府の考えなのか。後者であるとすれば、あなた方が北京に来たのは、問題を解決するためではなく、けんかをするためだということになる。日本の国内法の方が重要か、それとも両国が解決する必要のある政治原則の問題の方が重要か、考えをお聞きしたい。
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日本僑報社
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