<コラム>隣の今井美樹ちゃんと高鍋東小学校

工藤 和直    2017年7月3日(月) 23時10分

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平安時代、桓武天皇によって征夷大将軍として任命された坂上田村麻呂がいるが、坂上氏も同じく大蔵一族である。秋月氏は、先祖を中国人とする一族である。写真は筆者提供。

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「五万石の小藩なれど日向秋月に馬鹿殿は居らず」。『秋月家譜』によれば、日向高鍋秋月氏は大蔵氏を遠祖とし、大蔵氏は後漢滅亡時、献帝の孫の阿智王が日本に亡命し帰化した者の後裔といわれ、阿智王の子孫が大和朝廷の官物を納めた蔵(大蔵)の吏となり、その功によって大蔵姓を授けられ、称するようになった。平安時代、桓武天皇によって征夷大将軍として任命された坂上田村麻呂がいるが、坂上氏も同じく大蔵一族である。秋月氏は、先祖を中国人とする一族である。

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日向高鍋藩第七代藩主・秋月種茂(写真1)が儒官・千手興欽の進言に基づき安永7年2月24日(1778年)に藩校「明倫堂」を設立した。藩士のみならず農民等の一般庶民にも入学させたのを最大の特徴とする。高鍋城三の丸(現在は宮崎県立高鍋農業高等学校の一部)に位置し、従来からの武芸稽古所と併設して藩士の子弟に文武を兼学させた。藩士教育に熱心だったことから高鍋藩は『教育の藩』としても知られていた。小学と大学に分れ、それぞれを行習斎、著察斎と呼んでいた。行習斎には8〜9歳で入学し、孝経、大学、論語などの素読や、孝経、小学内外篇の講義、礼式、書道、数学を学んだ。行習斎を修了して進む著察斎では各自で講読または会読を行い、教授への質疑や典籍の科目は自由であった。

元治元年(1864年)には庶民教育のために椎木郷学校が開校し、次いで美々津(現・日向市)、都農(現・都農町)、平田(現・川南町)、三納代(現・新富町)、福島(現・串間市)に6つの郷学が、さらに小池(現・川南町)、日置(現・新富町)と諸県郡三名(現・国富町)に3校が設立され、明倫堂はこれらを管轄した。1869年(明治2年)には国学科が設けられ、玉鉾百首や神代正語、万葉集などが教えられた。1873年(明治6年)に廃止され、その後は高鍋島田学校を経て1887年には現在の宮崎県児湯郡高鍋町立「高鍋東小学校」となった。

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