Record China 2024年12月8日(日) 17時0分
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台湾新北市内にある楽生療養院で生活していた黄金涼さんが亡くなった。95歳だった(写真参照)。黄さんは、日本統治時代にハンセン病を理由に強制隔離の対象になった台湾人への補償を求める訴訟に勝訴した。
台湾メディアの聯合新聞網によると、台湾新北市内にある楽生療養院で生活していた黄金涼さんが亡くなった。95歳だった。楽生療養院の前身は、日本が台湾を統治していた1930年に、ハンセン病患者を強制隔離するために開設された施設だった。
日本では、ハンセン病患者の強制隔離を定めた「らい予防法」が1996年まで施行されており、98年には、かつて強制隔離の対象になった人々が、人権侵害を理由に国を相手に補償を求める裁判を起こした。2001年には原告側の勝訴が確定したが、日本政府は、日本統治時代に強制隔離の対象になった台湾人と韓国人に対しては補償を拒絶した。黄さんは、台湾人の隔離対象者も補償の対象にすることを求めて原告代表として日本で裁判を起こし、05年に勝訴した。
黄さんは台南市の出身で、12歳の時にハンセン病を発症して、施設に強制収容された。妹も発症したので、同様の措置が取られた。黄さんはそれ以降、妹以外の家族と会わせてもらえなかった。戦後になると、中華民国政府が隔離施設を接収し、戦前と同様の措置を続けた。戦前と同様に、施設の敷地を囲う塀には有刺鉄線が張り巡らせていた。最終的に強制隔離が廃止されても社会にはハンセン病に対する強い差別意識が残り、生活力を持たない収容者もいたので、施設はかつての強制隔離者の生活の場として使われた。
黄さんの裁判の背後には日本と台湾の人権活動家が奔走したことがあった。まず日本人弁護士が、戦前の強制隔離対象者の権益を獲得することを考えて、04年に訪台した。台湾側では台湾の国立東華大学法学部の准教授の陳シン隆さん(「シン」は「品」の「口」を全て「金」に替える)が中心となった。陳さんは京都大学で法学博士号を取得した経歴もあり、日本に何度も足を運んで日本人弁護士らと打ち合わせをし、台湾人の戦前の強制隔離対象者を原告として、日本政府を相手とする訴訟を起こすことを説得した。
張さんによると、台湾では当時もハンセン病患者に対する差別が残っていたので、出廷して証言してもらうことは容易でなかったという。楽生療養院の王偉傑院長は「ハンセン病の場合、身体のダメージよりも心のダメージの方が大きいです。将来には、人々に過去の歴史を知ってもらうために、いくつかの場所を設けるつもりです」と述べた。
楽生療養院では12月7日に、黄金涼さんの告別式が行われた。王院長は「黄おばあちゃんには、安らかにお眠りいただきたい」と話した。
台湾では現在、年間で10人程度のハンセン病患者が出ている。ハンセン病はらい菌による感染症で、発病すると手足などの末梢神経が麻痺(まひ)して、皮膚にさまざまな病変が発生する。古くから「不治の病」と考えられ、患者の外観なども影響して極めて恐れられた。現在では抗菌剤が有効に使われ、治療法が確立された。また、らい菌は感染力が弱く、感染して発病することはまれで、発症しても初期に治療を開始すれば完治が可能な病気という。また、全世界の90%の人が、ハンセン病に対する免疫力を持っているとされる。
なお、日本統治時代にハンセン病を理由に強制隔離の対象となった韓国人を原告とする裁判も、黄さんらによる裁判と同時期に行われたが、裁判所は韓国人の訴えを退けた。黄さんらによる裁判とは別の地方裁判所が行った裁判で、両裁判所の法解釈が異なったことが原因とされる。ただし日本では06年1月から2月にかけての衆参両院の審理を経て、台湾人と韓国人の該当者全員に補償が行われることになった。(翻訳・編集/如月隼人)
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