「アジアの世紀」はどのような世紀になるのか?―赤阪清隆元国連事務次長

赤阪清隆    2024年1月1日(月) 5時0分

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アジア各国の近年の活発な動きを見る限り、漠とした「アジアの世紀」の到来は、疑いようもなく現実になりつつある。写真はインドネシア。

アメリカの力が相対的に低下するにともない、次は「アジアの世紀」がやってくると言われて久しい。アジア開発銀行が「アジア2050―アジアの世紀は実現するか」とのセンセーショナルなレポートを出したのが2011年であった。しかし、そのような世紀が本当にやってくるのか疑う人も多くなったし、もう終わったという人もいる。中国、インド、日本、韓国、アセアンの国々が、いずれもアジア・グループの一員として協力し合うのではなく、それぞれの「わが道」を歩んでいることが、「アジアの世紀」なるものをつかみどころのないものにしている。しかし、そのような状況にもかかわらず、アジア各国の近年の活発な動きを見る限り、漠とした「アジアの世紀」の到来は、疑いようもなく現実になりつつある。

そもそもアジアとは何なのかについては、昔からさまざまな意見があった。岡倉天心は「アジアは一なり」と東邦の理想を掲げたし、フランスの歴史学者フェルナン・ブローデルもインドを含む極東の文明にかなり均質的な物質的文明を見た。この文明は菜食主義であり、コメの文明圏であり、宗教がすべての人間生活に関与する世界だ。他方、梅棹忠夫は「文明の生態史観」の中で、辛らつに、「地理的な名前としても、ユーラシア大陸からヨーロッパを除いたものを、アジアと呼んでいるに過ぎないのである。それを平気で踏襲して、文化的にも 歴史的にも、本気でアジアは一なりなどと考えることは、アジアに関するおどろくべき無関心と思考の粗雑さを示すものといわなければならない」と喝破した。種々意見の異なるアジア論を背景に、小倉和夫元駐韓国大使は、「世界的な価値を持ちうるアジアの価値は何なのかについて、アジア内部の厳格な検討と探求が行われなければならない」と訴えた。

そのアジアの価値論がもてはやされた一時期があった。1980年代から90年代の中ごろにかけて、すなわち日本のバブルが華やかなりし頃である。ルシアン・パイMIT教授や、シンガポールのリー・クアンユー首相やキショール・マブバニ国連大使(いずれも当時)、さらには日本でも多くの論客が、このような価値論を展開した。マレーシアのマハティール首相も西洋から学ぶのをやめて日本や韓国から学べと「ルックイースト」を提唱した。1982年のマレーシアの新聞の有名な風刺漫画に、英国外相がマレーシアに到着するのを、日本の着物姿で正座して迎えようとするマハティール首相を描いたものがあった。

当時、典型的なアジアの価値と目されたものに、儒教精神の影響を受けた家父長、組織、国家への忠誠、社会の秩序と安定のための個人の自由の犠牲、学問および技術向上意欲、勤労倫理と質実剛健、自然環境との共生などがあった。政治的には一党支配の容認、反対派に非寛容的なコンセンサス社会、市民的自由や人権よりも社会経済的な厚生の重視、集団主義、権威的な政府の選択なども特徴であった。ルシアン・パイ教授は、アジアでは権力観が強力な国家指導型の経済発展を可能にしたし、温情主義的権威と依存の相互作用、共同体の連帯、調和、集団、チームワークが重視される、したがって、アジアでは西洋的な民主主義は期待できず、独自の政治文化を絶えず持ち続け、西洋の政治文化と収斂せずに、これとは異なる近代化の過程をたどる、と主張した。これは1993年にフランシス・フクヤマが、その著「歴史の終わりと最後の人間」で、共産主義が崩壊したあと歴史は個人の権利または政府のコントロールからの自由を基礎とするリベラル民主主義によって終わりを告げると論じたこととは真っ向から異なる議論であった。

こうした「アジアの価値論」は、アンチテーゼたる西洋の価値、すなわち自由、民主主義、市場経済、小さい政府、人権、個人主義、進歩主義などへの根強い懐疑から出発していた。こうした価値や主義とは違うものがアジア諸国にはずっと昔から存在していて、それが現実の経済制度などの運用に有効な役割を果たしているという議論であった。その背景には、世界の超大国となった日本と、それを雁の一群のように追う韓国、台湾、シンガポールなどのダイナミックなアジア・タイガーたちの躍進があった。そして、中国が急速に追いついた。2000年代初頭には、日中韓の協力を前提にした、「東アジア共同体」構想の議論も活発になされた。

一世を風靡した「アジアの価値論」は、バブルがはじけてからの日本の長い経済停滞 、アジア諸国を襲った経済危機、日中間の対立などで、無残にも世界の論壇の舞台から撤退を余儀なくされた。それどころか、今度は、このようなアジアの価値論にいう諸要素こそがアジア諸国の経済危機・停滞の元凶とまで見られるに至り、「アジアの価値」というだけで見向きもされない時代を迎えた。そして、日本では規制緩和、構造改革などの新自由主義が力をふるう一方、活力を取り戻した米国では、ネオコンと呼ばれた保守主義者によって、世界に米国流のリベラル民主主義を展開しようとする政策が、2008年のリーマン・ショック時まで幅を利かせた。さらに、追い打ちをかけるように、中国の急速な台頭と、その権威主義的な体制、国内の反対勢力への弾圧などが、「アジアの価値」なるものの暗い側面をあぶりだした。

しかし、いま世界を見回せば、先祖がえりともいえる状況が見えてくる。中国に対する国際社会の厳しい目は変わらないものの、グローバルサウスを代表しようとするかのインドの目覚しい台頭、アセアン諸国の活気ある経済、そしてグローバルなレベルでの権威主義国の増大と民主主義陣営の停滞は、再び「アジアの価値論」をまな板にのせうる状況を呈している。アジア諸国が欧州連合やアフリカ連合のような政治的なまとまりをもつことは当面無理としても、共通の「アジアの価値」を有した国々の国際的なプレゼンスが増せば、おのずと世界からは「アジアの世紀」の再来と認識されるであろう。2023年12月に開かれた日本とアセアンとの特別首脳会議は、友好協力50周年を機に、地域の経済と社会を対等な立場で共に作り上げるという「共創」ビジョンを打ち出した。アセアンは、数年内に経済規模で日本を追い抜くという予測もある。日本がアセアン諸国を支援するという従来の関係から、対等な関係を打ち出すまでに至ったのである。

それでは、そのような「アジアの世紀」の到来は、世界に何を新しくもたらすだろうか?19世紀に世界を支配した大英帝国は、その遺産として、議会制度、金本位制度、航海の自由、リベラリズムといったものに加えて、英語、テニスサッカー、ラグビーなどのスポーツを世界に広めた。20世紀に世界の覇者となった米国は、民主主義、市場経済、自由貿易、国連、ブレトンウッズ体制、NATO、OECD(経済協力開発機構)、世界人権宣言などを世界にもたらした。まだまだアメリカは、軍事、外交、経済、貿易、金融サービスなどの各面での優位を容易に他地域に譲るつもりはなさそうだ。

アジア諸国からは、確かに、インドカレー、中華料理、日本の寿司がすでに世界標準となっているが、哲学的な思想や新しい政治経済、社会制度といったところで世界に提供できるものがないだろうか。古いアジアの価値論の焼き直しでは、世界に通用しないし、中国のいう「中国の特色ある社会主義」では汎用性を欠く。世界に通用する価値観を示して、アジア諸国の活力は何も特別な、あるいは欧米から見て不公正な、制度や慣行によって支えられているのではないことを示さねばならない。他の先進国と同じ土俵で勝負して、その結果優秀だからアジアは発展してきたという説明の方がずっと説得力を持つ。

しかし、さまざまな世界的課題に対してアジアからの積極的な貢献を考える前に、アジア諸国は、自らが抱える諸問題をまず解決しなくてはならない。さもなければ、西欧のポピュリストは、またぞろ不公正なアジア論を持ち出すであろう。いくつかの具体的な提案をしたい。

第一に、「法の支配」の厳格な実行である。普遍的な価値の存在を認めたうえで、すでに存在する政治、貿易、経済、環境、人権などに関する国際的な法や制度、約束などを、きちんと守る姿勢を示すことである。このため、シンガポール、インドネシア、タイ、マレーシア、ベトナムなどが、一日も早くOECDに加盟して、先進諸国から有益な慣行や制度を吸収するとともに、お互いにベストプラクティスを学びあう「ピア・レビュー」に参加すべきである。

第二に、民主主義の徹底だ。民主主義は、単に国民の代表を選挙で選ぶだけでなく、三権分立、特に司法の独立、表現の自由、報道の自由、基本的人権の保護など広範囲にわたる制度的な改革を必要とする。まだまだアジアにはこうした自由や権利が保障されていない国が数多くあり、アジア諸国の世界報道自由度ランキングなどはおしなべて低い。日本は積極的に、国連人権理事会や国連情報委員会などを活用して、自由の抑圧状況の改善を訴えるべきだ。

第三に、情報発信力の強化だ。アジアから世界に向けた情報、特に役に立つ情報がもっと流れなくてはならない。ニッポンドットコムの2023年9月26日付の記事に、「東京での落とし物、2022年度は過去最高の現金40億円弱が警察に届く:コロナ禍以前より人々のモラルは向上?」というのがあった。この記事は、英語、フランス語など多言語に訳されている。このように、日本やアジア各国の人々の正直で誠実な行動のエピソードや、平等な社会、多様な文化の共存、他者への思いやり、自然との共生などを示すデータをもっと欧米社会に向けて発信すべきだ。

そのほかにも、貧富の格差是正や、縁故資本主義との決別など、アジア諸国が抱える課題は多いが、他方、アジアにはきわめて魅力的な文明、歴史、文化、民芸、工芸、アートが存在する。西洋文明とアジアの価値は決して対立するものではない。一例をあげれば、昨年、宝生流の能は、スウェーデンのジャズとコラボできることを見事に示した(ニッポンドットコム、2023年6月7日付記事「現(うつつ)と幻の”あわい”:スウェーデン・ジャズと能の邂逅(かいこう)」)。このような試みはもっと広い範囲で行われることができるだろう。

アジア独自の価値を振りかざして西洋の価値に対抗しようとする試みは、これまで幾多の手痛い失敗を重ねてきた。そうではなく、西洋が長い歴史を経て築き上げてきた普遍的な価値を抱擁し、それに敬意を示しつつも、アジア側からの知見と蓄積された英知を頼りに、新たな視点から西洋とアジアとの懸け橋をかける時期が来ている。必ずやってくる「アジアの世紀」を真に実りあるものにするため、「アジアの価値」について再度真剣に議論する時が来た。

■筆者プロフィール:赤阪清隆

公益財団法人ニッポンドットコム理事長。京都大学、ケンブリッジ大学卒。外務省国際社会協力部審議官ほか。経済協力開発機構(OECD)事務次長、国連事務次長、フォーリン・プレスセンター理事長等を歴任。2022年6月から現職。

※本コラムは筆者の個人的見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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