<アジアの源流>日本最古の歌集『萬葉集』にみる古代精神とその時代=才媛の歌人「額田王」

アジアの窓    2022年6月12日(日) 22時30分

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悠久のアジアの源流の中で日本文化は独特の位置を占めている。撮影:宮川道夫。

悠久のアジアの源流の中で日本文化は独特の位置を占めている。仏教、儒教を受容する以前の古代日本人の心情、精神はどのようなものであったのか。この「日本本来の思想」を最古の書物の『古事記』、『日本書紀』そして歌集の『萬葉集』などから探求した学問を「国学」という。

特に和歌の歴史は古いものの、それは長く秘伝とされ一部の公家たちに独占されていたが、これを契沖(けいちゅう)、荷田春満、賀茂真淵ら近世の国学者たちが打ち破り、合理的、実証的な文献学的方法で緻密な研究を行った。特に契沖(1640~1701年)は、すべて漢字表記のため解釈が困難な『萬葉集』全巻に注釈を加え、『萬葉代匠記』を完成させている。今日に至るまで『萬葉集』という日本最古の歌集が多くの人に読まれることとなったのは、この時代の国学者たちの研究によるところが大きいといえる。

◆やまと歌は心の種、それは天地をも動かす 

古(いにしえ)の人々ははたして歌をどのように考えていたのだろうか。天皇の命によって編纂された最初の勅撰集『古今和歌集』には、漢文で書かれた「真名序」と仮名で書かれた「仮名序」という二つの序文がある。特に「仮名序」には、和歌の本質と効用や、『萬葉集』から「六歌仙」までの和歌の歴史などが書かれており、そこには「やまと歌は、人の心を種として万(よろづ)の言の葉とぞ成れりける。(中略)生きとし生けるもの、いづれか、歌を詠まざりける」とある。

これは心の思いが言の葉となるのだということである。また歌の効用として「力をも入れずして、天地を動かし、目に見えぬ鬼人をも哀れと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武人(もののふ)の心をも慰むるは、歌なり」とあり、歌というものは、単に心情の表出という意味だけではなく、歌自体に人や天地の神々までを動かす力があるのだと言っている。古の人々は言葉には霊力(言霊)があり、その言葉通りの結果をもたらすと考えていたようだ。上記のこの序文は『古今集』の撰者の一人の紀貫之が、「歌とは何か」ということを書いた日本文学史上の初の「歌論」である。

◆才媛「額田王」をめぐるドラマ

古代の人々の精神が表れている最古の歌集といわれる『萬葉集』(二十巻、四千五百余首収録)は、桓武天皇の延暦初年(782~783年)のころ、大伴家持(おおとものやかもち)によって集成されたといわれる。収録されている万葉歌の時代は舒明天皇元年(629年)から大伴家持が逝去する桓武天皇延暦4年(785年)ということになる。

『萬葉集』は、便宜上四つの時期に分けることができる。初期万葉といわれる第一期は舒明元年(629年)から「壬申の乱」が起こった天武天皇元年(672年)までで、この期の代表的歌人が額田王(ぬかたのおおきみ)である。額田王は天皇に代わって歌を代作することが許されたほどの歌人で、「熟田津(にきたつ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」は「白村江の戦い」で百済救援のために軍船が伊予熟田津を出航する際に、斉明女皇の代わりに詠んだ歌といわれている。

近江国へ遷都後も額田王が「遊宴の場」で詠んだ秀歌が「あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る」である。これは今日、宝塚歌劇団の演目名(あかねさす紫の花)になるほど有名な歌で、宝塚では額田王を巡る中大兄皇子(後の天智天皇)と大海人皇子(後の天武天皇)との愛憎劇として描かれているという。

生没年など不明な額田王であるが、『日本書紀』には額田王は「大海人皇子(おおあまのみこ)の妃であり十市皇女(とおちのひめみこ)を生んだ」とあり、その十市皇女は後に天智天皇の子の大友皇子(おおとものみこ)の妃となっているという。そして天智天皇が亡き後、吉野に遁世していた天智天皇の弟である大海人皇子が大友皇子(天智天皇の後継者)に対し挙兵するという「壬申の乱」が勃発するのである。

これは額田王にとっては自らの夫と、娘の夫との戦いであり、十市皇女にとっては父親と自分の夫との戦いということになる。この身内同士ともいえる戦いが額田王にとってどれほどのことであったかは、想像に難くない。そして額田王の名前がこの乱の以後、『萬葉集』に現れることはなかったという。額田王はまさに古代国家成立時にドラマチックな生涯を送った女性であったようだ。

◆謎に包まれた「歌聖」柿本人麻呂

萬葉第二期は、天武元年から平城遷都の元明天皇和銅3年(710年)まで。「壬申の乱」の後、即位した天武天皇は皇位継承について六皇子(草壁、大津、高市、河嶋、忍壁、芝基)の間で争いを起こさないように約定をさせたが、天武天皇が崩御すると大津皇子と草壁皇子が対立し、大津皇子はついに死を賜ることになる。大津皇子の姉大伯皇女(おおくのひめみこ)が詠んだ歌が「うつそみの人にある我や明日よりは二上山を弟背(いろせ)と我見む」。やがて草壁皇子も病没すると、天武天皇の皇后が持統天王として即位することとなる。

このとき宮廷にいて持統女帝に才能をかわれたのが、出自、官位その他が不明の『萬葉集』を代表する「歌聖」柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)である。この人麻呂の存在をめぐって哲学者梅原猛氏は著書『水底の歌 柿本人麿論』(1973年刊)で大胆な推論をした。それは人麻呂は政治的事件に巻き込まれ、海上の小島に流罪になり刑死したという説であった。(梅原説には多くの異論、反論もあった)。

◆神とつらなる自然景観を詠った万葉歌謡

第三期は和銅3年から聖武天皇天平10年(738年)までといわれ、この期には、笠金村、山部赤人(やまべのあかひと)、高橋虫麻呂、大伴旅人、そして山上憶良(やまのうえのおくら)、大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)などの歌人がいる。「田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」は、山部赤人の歌。

第四期は天平10年から天平宝字3年(759年)で、代表する歌人は言うまでもなく「我がやどの斎小竹群竹(いささむらたけ)吹く風の音のかそけきこの夕かも」の歌で有名な大伴家持である。この家持の歌には「うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも一人し思へば」という歌があるが、このように万葉歌謡には自然を詠いながら個人の内面を詠ったものが多くあり、その自然の背後にはいつも「神」の存在が隠れていることが特徴的なのである。

『萬葉』を集成したこの大伴家持は延暦4年(785年)に68歳で亡くなったが、死後政争に巻き込まれてしまう。それは家持の死の26日後、山背(やましろ)遷都を薦めた藤原種継の暗殺があり、家持はその主謀者とされてしまうのだ。そのため官位を剥奪、家書も没収され、集成した『萬葉集』は罪人の書として長く陽の目を見ることがなかった。しかし、平安遷都後の延暦25年(806年)、桓武天皇の病気快癒を願う大赦があり、家持は罪を許される。その後、平城天皇の御代になり家持の『萬葉集』はようやく世に出たといわれる。

冒頭の国学者の契沖は、『萬葉集』の書名の「萬葉」を「萬代(世)」と解釈し、萬代も伝わる歌集であるとした。天皇、宮廷歌人、貴族のほか一般庶民の歌までも集録したこの和歌集は、契沖が言うように古代から今日まで幾世も読み継がれた古の日本人の精神があふれた歌集といえるだろう。

(『萬葉集』については今日も歌の成立、解釈その他に諸説があるため、ここでは主に久保田淳編『日本文学史』(おうふう)を参考とした。)

参照文献=久保田淳編『日本文学史』(おうふう)、中西進編著『万葉古代学』大和書房、上野誠『万葉集から古代を読みとく』ちくま新書、清水正之『日本思想全史』ちくま新書、井沢元彦『逆説の日本史 2古代怨霊編』小学館文庫、など。

■筆者プロフィール:杉浦幸俊「アジアの窓」編集委員

時事通信出版局 編集次長、営業部長を歴任。成城大学大学院で「比較文化」専攻。経済誌『産業新潮』に「日本文化点描」を連載中。

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