日本の子ども空手大会で言われることは「国のために奮闘せよ」ではない―中国人コラムニスト

Record China    2019年10月31日(木) 17時40分

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米華字メディアの多維新聞は28日、「日本の子どもに見るこの国の未来」と題するコラム記事を掲載した。著者はコラム作家の張豊氏。資料写真。

米華字メディアの多維新聞は28日、「日本の子どもに見るこの国の未来」と題するコラム記事を掲載した。著者はジャーナリストでコラム作家の張豊(ジャン・フォン)氏。以下はその概要。

一昨日、(日本の)地下鉄に乗った。ちょうど小学生が帰る時間だ。数人の子が一緒に乗っていた。身体は小さく、たぶん小学1年生だろう。彼らは列車の中でぺちゃくちゃとおしゃべりしていた。毎日電車で通学しないといけないのだから大変だ。中国と異なるのは、日本の小学生は保護者が送り迎えをせず、自分たちで通学するというところだ。

私が住んでいる家の近くでも見たことがある。数人の子どもが一緒に信号を待っていた。肌は黒く焼けていて、ランドセルは色鮮やかだ。保護者は子どもの安全に不安を抱くことは全くない。

私が子どものころ、中国の農村の学校に通っていた時も同じだった。家族に送り迎えをしてもらったことは一度もない。親は自分の子どもが無事に帰宅すると信じて疑わなかった。(日本と)違うのは、当時の農村は非常に後れていたということ。電車どころか、電気もなかった。そこは知っている人しかいない環境だった。あの時の安心感は、大人同士が互いにつくり上げたものだった。

日本はもちろん違う。日本は真に現代的な、他人同士の社会だ。子どもが通学するには複雑な交通経路を行かなければならず、未知の事象にも遭遇する。こうした状況で安心感を得るのは非常に難しい。

私が見る限り、日本の親の子どもに対する姿勢は、私が子どもの時の感覚と似ているところが多い。夏、子どもは外で思い切り遊び、真っ黒に日焼けする。両親はもちろん子どもを愛しているが、独立性にも気を配る。この独立性は、中国の親が口癖のように言う「子どもの独立」ではなく、親がまず独立するということだ。

友人と食事をした時のことだ。彼女は高校生の娘を一緒に連れてきた。その子はずっと本を読んでいた。かばんを持ってみたら、軽く見積もっても5キロ以上はあった。私は友人に「子どものかばん、重すぎるんじゃないか」と言った。友人はうなずいたが、特に大きな問題とは感じていないようだった。外は大雨だった。娘は自分でかばんを持ち、傘を差した。親に手伝ってもらうという意識は全くないようだった。

これこそが独立だ。背景には日本社会の雰囲気がある。安心感があり、責任感がある。誰もが自分に責任を持つ必要があるのだ。

日本の街では大きなかばんを担いだ子どもをたくさん見かけるが、おじいちゃん、おばあちゃんの姿はない(※中国では子どもに付き添い、荷物を持つ高齢者が多い)。年寄りはどこに行ったのか。彼らは自分の生活をしている。

児童の少林寺拳法と空手の全国大会を見たことがある。開会式で、司会者は注意事項を説明する。「国のために奮闘せよ」といったことは全く言わず、その代わりに必ず強調されるのが「地震が起きたらどうするか」「どのように周囲の友達に気を配るか」「トイレに行きたくなったり迷ったりしたら誰に聞けばいいか」だ。

このように、運動会が一種の公共教育のプラットフォームになっている。おそらく、(日本では)類似の社会教育は非常に多いだろう。子どもは小さい時から、社会とは何かを認識し、緊急事態にどのように対処すべきかを知るのだ。親の安心感とは、このような社会から生まれるものだ。(翻訳・編集/北田

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