工藤 和直 2019年10月29日(火) 23時0分
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初めてこの絵巻物を見たのは10年以上前になる。縦40cm余りで長さは12mにもなる絵巻物である。驚いたのはその精巧な書き方と店先にかけた看板の字が読めること、そして一人ひとりの人間に動きがある事だ。
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初めてこの絵巻物を見たのは10年以上前になる。縦40cm余りで長さは12mにもなる絵巻物である。驚いたのはその精巧な書き方と店先にかけた看板の字が読めること、そして一人ひとりの人間に動きがある事だ。この絵巻物は清朝1759年に、時の皇帝「乾隆帝」に献上されたものである。作者は“徐揚”、蘇州呉県出身の宮廷画家である。当初、この絵巻物は「盛世滋生図」と呼ばれたが、1950年に「姑蘇繁華図」と改名された。
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この姑蘇(蘇州の古い言い方)繁栄図は18世紀の蘇州城外の繁栄した風景を現した一級品だ。その絵画は霊岩山より木讀(Mu Du)を経て東に行き、横山を通り石湖に渡り、上方山を仰ぎ見て、横山・獅子山を西に見ながら姑蘇郡の城に至る。葑・盤・胥の三門を経由して、閶門から山塘橋を曲がり虎丘で終わる絵巻物だ。
“徐揚”は閶門近くに住み、乾隆帝南巡(1751年)に際し自分が描いた冊子を献上、その才能を認められて北京の宮廷画家となったといわれている。この姑蘇繁栄図は1759年に描かれたものだが、清朝崩壊後に廃帝溥儀によって北京故宮から長春(新京)に持ち出され、満州国が滅ぶ間際に民間に流出、1945年から遼寧博物館所蔵となり、現在国家第一級文物と指定されている。ではこの絵巻物を大きく霊岩山・石湖・盤門・閶門・虎丘山の五つに分けて、現在の姿とともに紹介したい。
(写真1)は蘇州城の西15kmにある著名な景勝地「霊岩山」と小さな村の情景である。霊岩山には呉王「夫差」が西施のために作った離宮があったが、越に滅ぼされ離宮は消滅した。現在は山上に七重の多宝佛塔を見ることができる。
石湖は蘇州盤門の南西5kmにあって周囲は6kmほどで、茶磨峰、上方山、呉山の諸峰が湖と映えあっている。北は越来渓へと連なり、横塘へと続く。ここに見える越城橋(右手前)と行春橋(左上)は絵と同じく現存する(写真2)。清朝乾隆帝は、ここ石湖にも行幸されている。
盤門は蘇州城南西の隅にある。その南にある日本人租界地から芥川龍之介・谷崎潤一郎らも盤門から蘇州城内に入ったと記録がある(写真3)。右に見える呉門橋から京杭(北京-杭州)大運河に向かうには、南下して五龍橋を抜ける。
閶門は蘇州城北西に在り、門の内外はともに商業の盛んな地域である。当時の門は二重の城壁から成り、吊橋が描かれている。現在の閶門は楼閣があるが、絵のような二重の城壁構造となってない(写真4)。
虎丘山は蘇州城の北西4kmの地に位置し、標高約30m程度の小高い丘に斜塔で有名な「雲岩寺塔」がある。春秋の頃、呉王夫差は父をここに葬った。巻末に作者が記載した説明文がある(写真5)。
■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大学大学院工学研究科修了。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、蘇州市ある日系2500社、約1万人の邦人と共に、日中友好にも貢献してきた。2015年からは最高顧問として中国関係会社を指導する傍ら、現在も中国関係会社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中国や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演会を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。
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