<コラム>100年前の珍事、青島に設立された日本高等女学校

工藤 和直    2019年1月24日(木) 0時0分

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青島の春は桜に始まり、5月になると白いアカシアの花房が街路を彩る。青島にはアカシアが非常に似合う。青島神社の麓には多くの日本人が住み、大和町にあった日本郵便局は現在も存在する。写真は筆者提供。

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青島の春は桜に始まり、5月になると白いアカシアの花房が街路を彩る。青島にはアカシアが非常に似合う。青島神社の麓(ふもと)の若鶴町(現在の遼寧路)には多くの日本人が住み、大和町(現在の熱河路)にあった日本郵便局は現在も存在する(写真1)。その郵便局から東に黄台路を200メートル行くと青島日本高等女学校(青島高女)跡がある(写真2)。

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青島守備軍第2代司令官・大谷中将が青島における高等普通教育として最初に着手したのは、「青島日本高等女学校」の設立であった。大正5年(1916年)、青島高等女学校は旧ドイツ女学校跡に設立され、大正7年若鶴山山麓(黄台路10号)に新校舎が落成、女学校は新校舎に移動した。移設後100年になる。なぜか男子中学校より先に高等女学校が開校されると言う珍事が起こったのだ。現在なら、女性ファーストの一例になったことであろう。

青島高女跡は2017年まで四季花園賓館だったが、現在閉館している(写真3)。建屋の老朽化によって屋根からの落下物があり、改修が急がれているためだ。正門にある花崗岩造りの門柱は当時のままで、(写真4)は全校生徒が校舎前で体操練習している当時の様子であるが、黄台路側から撮った写真であろう。生徒数は152名と記録されている。人数のわりに大きな校舎である。青島高女には小学校教諭を育成する全寮制「専攻科」があり、中国各地(北京・天津上海・済南)から多くの女学生が集まった。また、私立青島学院内に紘宇女学校もあり、青島には2つの女学校があった。

同じく大谷中将の命令で「青島日本中学校」が1917年(大正6年)、旭ケ丘(ドイツ・イルティス兵営跡地)に開設された。イルティス兵営は1899年太平山南麓(今の中山公園)に作られた2階建ての建物であった。1921年(大正10年)、旧ドイツ自動車廠跡地(ビスマルク兵営)に新校舎が落成、桜ケ丘校舎と呼ばれ全校生徒が新校舎に移動した。新校舎の敷地は5万2400平米(1万5892坪)、校舎の延坪数は6400平米(1936坪)で、当時の日本においてはまれに見る堂々とした外観を有していた。校舎内に寄宿舎があり、膠済線沿線の生徒ばかりか全中国各地から、ここに寄宿勉学した。現在も中国海洋大学正門前にある門柱は昔のままである(写真5)。

2017年11月21日にかつて青島の小学校・中学校・女学校に通い、戦後日本に引き上げた方々が作る「ふるさとは中国・青島、青島会」の“最後の同窓会”が開催された。多くの方が80歳を越え、高齢化を迎えたからであろう(関西テレビ放映)。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大学大学院工学研究科修了。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、蘇州市ある日系2500社、約1万人の邦人と共に、日中友好にも貢献してきた。2015年からは最高顧問として中国関係会社を指導する傍ら、現在も中国関係会社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中国や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演会を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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