Record China 2011年6月6日(月) 11時52分
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4日、ウィキリークスが公開した米外交機密電によると、「天安門事件」は実際には天安門広場の外側で起こっていた可能性があるという。写真は天安門事件から22年が過ぎた天安門広場。
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2011年6月4日、米国営放送ボイス・オブ・アメリカ(中国語版サイト)によると、米国務省は3日、中国共産党に対して、89年6月4日の天安門事件で死亡した被害者の名簿を公開し、事件に関与したとして身柄を拘束あるいは軟禁状態にある人々を釈放するよう求めた。
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記事によると、ウィキリークスが同日公開した米外交機密電は、「天安門事件」は発生しておらず、実際に流血事件があった地点は天安門広場の西側だという「事実」を示しているという。天安門事件では中国共産党当局が軍と戦車を動員し、民主化デモに参加した学生たちを武力鎮圧、数百人から数千人の命を奪ったとされている。しかしウィキリークス公開の機密電は、事件では北京市中心部の西側から天安門広場へ向かう途中のデモ参加者に対して発砲が行われたことを示しているという。
同電によると、1万〜1万5000人の武装警察部隊が北京市内を出発したが、一部兵士は「オートマチック型武器」を持っていたという。パラシュート部隊と戦車部隊も同時に同市南部から北上していたという。同電はさらに、「自動車を倒して道路にバリケードを作った学生たちは、既に何度も軍に向かってバリケードを越えないよう要求した。だがこれについて、われわれは懐疑的だ」と述べている。
89年6月3日の同電にはこうある。「北京市中心部は非常に混乱している。当時北京飯店に滞在していた官僚によると、軍隊は長安街を東に向かいながらデモ参加者に近づいている。軍はデモ隊に向けて発砲していないが、軍の後方の(位置にある)天安門広場の方向から銃声が聞こえる」。また、チリの外交官が米国の外交官に対して述べたとされる「デモの最後の数時間」の見聞記録には、「実際には、天安門広場に入った大多数の兵士たちは警棒や棍棒などを装備していただけで、彼らの後方から武装部隊が支援にまわっていた」との記録があるという。(翻訳・編集/津野尾)
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