工藤 和直 2017年11月16日(木) 20時40分
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鹿児島県出身の「吉利平次郎」氏は、日本人と中国人の共学実現の念から私立青島学院を設立、1945年(昭和20年)の敗戦までの30年の間に少なくとも1万人以上の卒業生を送り出した。写真は筆者提供。
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鹿児島県出身の「吉利(よしとし)平次郎」氏は、日本人と中国人の共学実現の念から私立青島学院を設立、1945年(昭和20年)の敗戦までの30年の間に少なくとも1万人以上の卒業生を送り出した。日本人と中国人を同じ教室で共学させることで両国の相互理解を実践した。相互理解の授業は、例えば「日本」という共通の漢字を日本人には「リーベン」と読ませ、中国人には「にほん」と読ませることから始めた。大正から昭和にかけて、日本政府は、国策として韓国(朝鮮)・旧満州・上海など邦人が多く住む地域(租界地など)に多くの学校を設立し現地で日本人教育を行ったが、青島学院は私学でしかも日本人と中国人の共学を実践した極めて異色の学校だった。吉利が戦前戦後においても民間レベルにおける日中関係の友好を維持・向上させた功績は極めて大きい。
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1916年(大正5年)4月、青島市馬関通(曲阜路)にあった青島基督教青年教会を教室として日本人青年を対象とした夜間英語学校が開設された。翌1917年(大正6年)4月、英語に加えて簿記・日本語を教科に組み入れて学院の名称を「青島学院実業学校」に改称すると共に中国人との共学を開始した。初年度新入生290人、その内中国人は50人であった。当時、日本の経営下にあった山東鉄道の若い社員が多くここで学んだという(写真1)。
生徒数の増加に伴い馬関通教会教室は手狭になったので、青島守備軍軍政部と折衝の結果、1918年(大正7年)、廃校となる青島小学校葉桜分教場の払下げを受けることとなった。青島学院実業学校の生徒はその後増加し、1920年(大正9年)の生徒数は832人、授業が始まる午後6時半頃になると学院周辺の道路は通学する生徒でふさがるほどであったという(写真2)。
吉利平次郎氏は、かねてより計画していた全日制私立商業学校を1920年(大正9年)4月に開校した。青島学院商業学校(台西鎮単県路)の設立である。初年度の新入生は60名であったが、その内30名は中国人であった。1921年(大正10年)の青島学院の総生徒数はさらに増加して963人となった。吉利氏が念願してきた全日制日中共学の商業学校が、この年に初めて形となったわけだ(写真3)。
終戦後、吉利平次郎は日本各地に引揚げた日本人在学生の在学証明や卒業証書の発行と日本国内学校への転入学手続きに追われた。そして引揚げから半年後ついに病に伏した。亡くなる一週間前、孫の吉利醇に「百年後の中国は世界を制覇する。お前はその目でしっかり確かめよ」と語ったという。そして現在中国は実質GDPで世界一の国となった。1916年(大正5年)4月の学院創設から、ちょうど100年を越えた。青島学院OB会は「桜稲会」と称している。
■筆者プロフィール:工藤和直
1953年、宮崎市生まれ。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、日中友好にも貢献してきた。
■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大学大学院工学研究科修了。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、蘇州市ある日系2500社、約1万人の邦人と共に、日中友好にも貢献してきた。2015年からは最高顧問として中国関係会社を指導する傍ら、現在も中国関係会社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中国や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演会を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。
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