<コラム>ドイツが下準備し日本が仕上げた青島、120年間の街並みの変化

工藤 和直    2017年9月8日(金) 0時40分

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「ドイツがつき 日本がこねし 青島餅 汗と涙は中国人民」、山東省青島市の歴史は1897年11月14日ドイツ海軍陸戦隊が上陸してから始まった。今年でちょうど120年となる。写真は筆者提供。

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「ドイツがつき 日本がこねし 青島餅 汗と涙は中国人民」。山東省青島市の歴史は1897年11月14日ドイツ海軍陸戦隊が上陸してから始まった。今年でちょうど120年となる。この日の早朝、ドイツ海軍陸戦隊720名の将兵は演習するとの名目で、清の同意を得ないまま膠州湾に強行上陸した。(写真1)は小魚山から見た当時の地形である(湾内に桟橋が見える)。青島はその後、ドイツの15年間、日本が2度にわたり実効支配した30年間、戦後の一時的なアメリカの5年間、その後70年間の新中国と、合計120年間の歴史がある。ドイツが上陸する前、天后宮の付近に上・下青島村の2村があった。わずか300戸余の人家であった。(写真2)は小魚山から見た現在の街並みである。

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村の背後には、風台嶺(現青島山)と大石頭山(現信号山)があり、全体として傾斜地であった。山々の間に河が流れており、その下流は青島湾に流れ込んでいた。この河は青島河と呼ばれ、上・下青島村はこの河の両岸にあった。また、湾の南にあった「小青島」の存在によって、青島湾は強い風波を和らげてくれる所から、この湾は古くから漁民にとって漁船を係留するのに格好の地であった。「青島」の地名は、この村と島の名前から生まれた。正式に「青島」と呼ばれるまで、この地区は膠澳(Jiao Ao)と呼ばれていた。

1898年3月に清独条約が結ばれ膠州湾一帯を99年間、清国から租借することとなった。ドイツはこれより30年も前から膠州湾地区を地理的・軍事的に調査していた。この条約締結後直ちに「青島をドイツ東洋艦隊の母港とすると共に、青島が本国にとって経済・貿易の面で貢献し、かつ健康的で快適、模範的な植民地を建設すること」を方針とし青島建設に入った。またドイツ政府は、1898年、十分な港湾設備も備わっていない青島を自由貿易都市として宣言した。

1898年、ドイツ海軍大臣ティルビッツは青島の最高責任者としてクルト・ローゼンダールを初代総督に任命した。青島租借地は海軍省の管轄となった。ローゼンダールの職務はドイツ東洋艦隊母港の建設と軍艦燃料用石炭と水の確保、要塞の構築、植民地貿易都市の建設であった(写真3・4)。しかし着任後、彼が当面した最大の課題は約2000人に及ぶドイツ将兵及び建設に従事するドイツ民間人の宿舎と食料の確保であった。そのために、目標を追加し、生活インフラ(電気・水)の整備・生活住宅の建築に没頭することになった。あわせて、軍艦用石炭の確保のために急ぎ膠済鉄道430キロメートルを構築したのであった。

1914年第一次世界大戦の勃発により、日本は連合国側として参戦、青島を火事場泥棒的に攻撃し租借した。日本の目的は明らかであり、朝鮮半島に続く遼東半島の租借、そこに最も近い山東半島を狙うのは明らかであり、絶好のタイミングで青島に展開するドイツ租借地をうまく略奪することが出来た。当時の日本の狙いは中国内陸部であり、大連から延びる南満州と山東半島から伸びる中国内陸は是非とも確保したい地域であった。山東には石炭・鉄鉱石と軍事上に必要な鉱物の存在もあった。その後の理不尽な対華21カ条に見るように狙いは中国大陸内部へ進出する突破口としての青島要塞攻撃であったといえる。

ドイツの統治は15年間であったが、元々の構想は青島湾から大港にかけて広大な地区に模範的植民地を作り上げる計画であった。ドイツは青島駅から小魚山までの東西2キロメートルと桟橋から北は中山路と徳県路が交わる1キロメートルを青島区として、ドイツ人・欧米人居住区として開拓した。その北の山東路(静岡町)から市場三路が堂邑路と交わるまでを大鮑島区として、中国人富裕層の居住区とした。一般中国人は青島市街から離れた台東鎮や台西鎮に住まわせた。

このわずか15年間に構築したインフラが、その後の日本の統治でも有効に作用し、日本が商工業の発展にのみに没頭できた要因となったと言えよう。ドイツが15年間に商工業施設として残したのは「青島麦酒」くらいであったが、その後日本は、大鮑島区の山東路(静岡町)から堂邑路(所沢町)・館陶路(葉桜町)へ横浜正金銀行(写真5)や朝鮮銀行、三菱洋行(写真6)、青島取引所(写真7)などを建設、台東鎮から四方・滄口鎮は豊富な水資源があったため、日清紡・鐘紡・豊田紡織などの繊維工業施設の建設が行われ、青島の発展に寄与した(写真8)。ドイツは要塞軍事貿易都市を作り、日本が商工業貿易都市にした。すなわちドイツがついた餅をこねて黄粉をかけて食べられるように仕上げたのが日本であった。もちろん、「こねてついた」のは中国人民であり、そもそも数百人程しか居ない地域に数十万の労働者を山東省ならびに周囲の省から半ば強制的に連れて来て安い賃金で労働させた責任は、ドイツ・日本にあるのも疑えない事実である。

青島が外国の租借・占領あるいは外国の影響下にあった期間は1897年(明治30年)から1946年(昭和21年)4月までの50年であった。1914年まではドイツによる15年、日本は1922年ワシントン条約に基づき、青島に対して有していた租借権を中国にいったん返還したものの、中国政府との細目協定により、日本は青島及び山東省に対し相当の権益を保有し続けた。青島及び山東省内において、この協定権益の下、日本の民間資本による経済活動が活発に行われた30年であった。現在の青島の状況は、ドイツ建屋は維持、日本建屋は解体にある。中国人にとって、ドイツ建屋は近代化の象徴であるが、日本建屋(特に宗教施設など)は帝国主義の象徴であるからだ。

最後に山東省の有名人を調べて見た。山東省は多くの歴史的有名人のふるさとである。思想家であり教育者であった孔子、思想家の孟子・荘子・荀子、政治家の管子・晏嬰・諸葛亮・房玄齢・劉嬰、軍事家の孫武・呉起・孫[月賓]・戚継光、科学者や発明家の扁鵲・魯班・氾勝之・賈思キョウ(キョウ=協の十なしにつくりは思)・劉洪・王[木貞]・何承天・燕粛、文学者や芸術家の王羲之・劉キョウ(キョウ=協の十なしにつくりは思)・顔真卿・李清照・辛弃疾・張択端・張養浩・孔尚任・蒲松齢などその数は星の如く数えきれない。特に春秋から前漢までの先賢達の思想と業績は史記に記載され、中国伝統文化を構成、今も深遠なる影響を与えている。近代文壇の季羨林、臧克家、任継愈、賀敬之、喬羽、莫言、梁暁声、劉大為などの著名作家はみな山東省出身で、中華文化に大きく寄与している。しかし、個人的には、広州空港に巨大な写真が掲載されている煙台市出身女優「范冰冰」の印象の方が強い。又、諸城出身の毛沢東第四夫人「江青」も山東人である。

■筆者プロフィール:工藤和直

1953年、宮崎市生まれ。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、日中友好にも貢献してきた。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大学大学院工学研究科修了。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、蘇州市ある日系2500社、約1万人の邦人と共に、日中友好にも貢献してきた。2015年からは最高顧問として中国関係会社を指導する傍ら、現在も中国関係会社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中国や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演会を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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