工藤 和直 2017年8月8日(火) 0時10分
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中国に初めて来たのは1987年の冬であった。多くの中国の方々と朋友になり「中国人」はそれなりに理解したが、「中国」はだんだん分からなる。写真は筆者提供。
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中国に初めて来たのは1987年の冬であった。上海虹橋空港で初めて中国の土を踏み、南京路の国際飯店まで車で2時間を要した。冬のせいもあるが男女とも同じ紺か黒の人民服、道路に異常なくらい自転車であふれ交通妨害になった。通訳でお願いした女性はホテルの入り口までしか入れず、その入り口には紅衛兵のような男が立っていた。エレベーターの各階にも紅衛兵が立って、なぜか不釣合いの椅子だけが各階エレベーター出入口にあった。
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お金は兌換(だかん)紙幣で、外国人は一般の人民元は使えない。39円/元(現在は16円/元)と管理された。上海から蘇州までまだ高速もなく、下道を車で5時間近くかかった。帰りは汽車で上海に戻ったが、ウルムチからの夜行寝台列車、臭いというか汚いと言うか、スーツにネクタイはまったく合わない場所であった(現在の高速鉄道は快適です)。
蘇州日本人街は高新区と言う蘇州市西部にある(写真1)。大運河を越えて新区へ渡る獅山橋はまだなく、寒山寺付近から渡し船で対岸に渡り、政府のマイクロバスで運河沿いを南下、蘇州新区開発区の将来について5年後には大工業団地となると拝聴した。半分うそだろうと思ったが、20年後にはそれ以上になったのは本当に脅威に値する。その時の新区招商局の方々は今どうしているだろうか?
弊社が蘇州に進出したのは2002年であるが、その数年前からは現地調査を実施、獅山橋近くにあった横河電機さんへ話を聞くためたびたび訪問した。会社内にあるソメイヨシノは、蘇州地域で一番きれいな名所であり、毎年春になるのを楽しみにしていたが、再開発地域となり桜の苗木は伐採されたのが、非常に残念である(写真2は最後の桜満開)。
造成用の土地購入などに入った2003年春SARS(重症急性呼吸器症候群)で多くの方が亡くなったが、家族に馬鹿と言われながらもここ蘇州に片道切符で来た(その当時日本に帰国しても1週間は発病可否を見るためホテルに缶詰め)。契約タクシーで上海から江蘇省の入口になる花橋インターで数時間検査待ちをして、ようやく蘇州市内に到着した。政府との交渉や銀行回りなど昼間は時間が潰れたが、夜は外出禁止令が出ており、駐在者は自宅に戻り、出張者への禁止令はないのを口実にして夜な夜な一人日本人街に繰り出した。
当時の新区商業街(淮海路)はまだ道幅が半分のドブ板通りであった。SARS騒ぎで人影も少なくどの店も客はほとんどない状況、いつも行くのは日本料理屋「伊藤園」の2階にあった「蝶」というスナックであった。夕方6時過ぎに入り、下の日本料理屋から残り物のご飯を頂きながら小姐数名といっしょに食事、バックミュージック代わりに流れるカラオケに知る歌があれば歌い、なければバカ話と言う次第であった。夜も10時前になり帰ろうとすると「次のお客さんが来るまで」と止められるがその後真夜中12時になってもだれも来ず、結局小生一人のみが今日のお客という有様であった。大変なSARS騒動であったが、悪いだけでなく意外と楽しい蘇州の夜でもあった。その後、2004年1月から正式に蘇州駐在となった。
多くの中国の方々と朋友になり「中国人」はそれなりに理解したが、「中国」はだんだん分からなる。よく「中国」と「中国人」、「日本」と「日本人」と言うが、まったく同じで、私が知る中国人も日本人と同じで、良い人も悪い人も居る。弊社の従業員は地方から来ている6000名の農民工であったが、家族からは日本人は鬼だから「気をつけろ」と言われたそうだ。教科書にも「鬼」と書いてある。でも、「入社して3年間、鬼に会ったことはない」と言うようになった。
人はみな同じであり、会って話せば分かる。しかし、「中国」「日本」はどうであろう、14年も居るがいっこうに分からない点が多いし、ますます分からなくなった。中国側の胡耀邦首相、日本側は中曽根さんが首相になった80年代だったか、非常に良い時代があった。しかし、その後長期政権が見え出して靖国訪問した結果、日中間は悪化。その後小泉さんの時も、また靖国で悪化した。そして今の安倍首相の時も同じである。
天皇陛下が上海南京路に来られたのは1992年だった。今上海に来られれば、一番びっくりされるのは両陛下であろうと思う。天安門事件で世界的に孤立した中国を救ったのは陛下の覚悟の訪中であった。中国の近代化は2000年になって急激に進展した。80年代、日中関係が良かったのはどうしてか?国力が拮抗になった今、一番仲が悪い関係となった。昔は、中国が譲歩(がまん)したのかもしれない、だから天皇陛下も訪問できた。今はどうであろう、絶対ありえないのが天皇訪問であろう。「お互いが過去を知る、譲歩する、がまんする」しかないと思う。
不幸な事に2012年9月15日の午後に商業街を騒然とさせた抗日暴動が発生した。思い出の伊藤園も暴徒が乱入破壊された(写真3)。蘇州は当時2500社以上の日系企業と1万人の日本人が居る都市で、非常に親日的な地域であるといわれたが、状況が一転した。日本本社の結論は、これ以上中国拡大は停止、チャイナプラスワン構想でアセアン(特にベトナム)への投資が加速した。リーマンショックや新型インフルエンザをはじめ多くの事件があったが、中国に初めて来てすでに30年、されどまだ30年である。
■筆者プロフィール:工藤和直
1953年、宮崎市生まれ。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、日中友好にも貢献してきた。
■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大学大学院工学研究科修了。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、蘇州市ある日系2500社、約1万人の邦人と共に、日中友好にも貢献してきた。2015年からは最高顧問として中国関係会社を指導する傍ら、現在も中国関係会社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中国や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演会を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。
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