人民網日本語版 2016年10月24日(月) 23時20分
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ネット上では過去に「日本語を学ぶ人はお気の毒」というトピックが話題になったことがある。これは日本語を学ぶというこの後戻り不可能な道を選んでしまった自分の苦労を嘆く内容だ。
ネット上では過去に「日本語を学ぶ人はお気の毒」というトピックが話題になったことがある。これは日本語を学ぶというこの後戻り不可能な道を選んでしまった自分の苦労を嘆く内容だ。(文:魯強。在日華字紙・中文導報掲載)
例えば、「百」という数字一つとっても「二百(にひゃく)」と「三百(さんびゃく)」、「八百(はっぴゃく)」というようにその読み方が異なる上、動詞の未然形、終止形、連用形の活用などはめまいがするほど。同じように後戻り不可能な日本語を学ぶ道を選んでしまった私にとって、このトピックに挙げられているツッコミは同感することばかりだ。訪日してからの年数も少なくない私にとって「百」と「分」の読み方の違いはさすがにもう難しくないが、助詞の「は」と「が」の用法は未だに理解できていないし、毎日様々な二重敬語に接するたびに頭を壁に打ち付けたくなるような衝動に駆られる。外国語の学習というのは、時にまるで無数に張りめぐらされた網がまとわりつくように、いくら必死に抜け出そうともがいても、どうしようもないほど苦しまされるのだ。
私のある友人は北海道でテレビ局の記者をしている。彼は何年も前から中国人と日本人のメンバーからなるアイスホッケーチームを取材している。中日両国のメンバーはお互いに「文化の違い」に直面することがあるのだが、それは目に見えないものだという。テレビという媒体を通じてどのようにこうした抽象的な内容を表現すればいいのか、彼は当初非常に困ったそうだ。さんざん考えたあげく、彼は「言葉」をその切り口とすることにした。練習場や食事の席、セレモニーの会場だけでなく更衣室の中でもメンバー同士の会話を耳にすることができる。その会話には中国語あり、日本語あり、カタコトの中国語に、カタコトの日本語もあった。何年もの月日を経たことで、チームメンバーはどうやらこのような交流スタイルにすっかり慣れてしまったようで、私の友人の記者とあいさつするときは中国語と日本語をミックスして話すのだという。また、彼らを取材した番組が放送されるのを見たところ、そのチームメンバーたちが中国語と日本語、カタコトの中国語と日本語で交流しながら試合に向かう姿はなんともカッコよく、私はとても新鮮に感じた。
言語学習というのは、ある決まったプロセスを常に経験するもので、私自身がそのいい例だろう。日本語を学び始めた当初はその難しさに発狂しそうになり、全く理解できず、頭はくらくらして死にそうな目に遭った。10年以上も一生懸命勉強し続け、ようやくひと山越えたと思ったら、また繰り返し新たなプロセスに突入し、同じような苦しみを味わい、さらに辛い思いをするというようなものだ。
外国語学習はこんなにも難しいのに、なぜ学び続けようとするのだろうか。それは相手が重要だからだ。スポーツのチームでは、外国人選手と交流する必要がある。会社では外国人の同僚や顧客と商談する必要がある。国際社会においては、私たちは相手の国と交流する必要があるのだ。私たちは相手を理解し、相手に自分のことを伝える必要がある。先方にとって重要なことは私たち自身も気にしていることかもしれないし、客観的にみると気にしなければいけない点なのかもしれない。要するにこのように重要であるが故、私たちは外国語に幾度となく苦しめられたとしても、それでも初恋のように追い求めるのだろう。
言語は壁のように中日両国の間に立ち塞がっており、その壁は両国の交流の障害であると同時に、ある一定の意味では両国の交流の原動力になっている。このような壁があるので、私たちは自分の力を尽くしてその壁を破ろうとする。そしてその壁を打ち破ろうと何度も満身創痍になるからこそ、私たちは壁を打ち破った後の成果を大切にできるのだ。この記事で紹介した中国人と日本人メンバーからなるアイスホッケーチームの結束力はさらに強くなるだろう。なぜなら、この結束力を手に入れるのは簡単ではないからだ。(提供/人民網日本語版・編集YK)
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